2024-08-08 再会そば粉ガレット、もう一方へ染みこむ
友人と会った。一緒に劇団みたいなことをやっていた頃、お互い数十年後にフランスにこんな形で来て一緒にガレットを食べるとは全く想像もしなかった。
にゃうにゃうと誘われて庭に来て、今これを書いている。
本を読みながらどんな風にその情景を感覚するかというと、出てきた景色や道具をまわりに少しずつ描いてゆき、出来た舞台の中をゆっくり進むようなことをしているかもしれない。地面の熱や木陰のひやりとする感じ、ぐつぐつ煮立てる音、砂利を踏むのは裸足かサンダルか、そんな風にして入っていく。置いた道具や描いた絵がそばから消えていくこともあるし、濃く立っていてくれるものもある。もちろん最初から体ごと入ることがむつかしいものも。でもうまく染み込むことができれば、私はその中で好きなだけ景色を見回したり、描かれていない場所を振り返ってみたりする。のちのち本の内容を忘れたとしても(よく忘れる)、鼻の奥のほうに描いた景色が残っていることがある。
第二章。マコンドの村でホセ・アルカディオとともに歩き、トランプ占いのピラルの寝床に忍び込んだら、風が吹いてトマトの葉の匂いがした。土の匂いは濃く甘くて、本の中では暗闇を歩いていたのに、目を上げれば私自身は朝の光のざわめきに包まれている。小さな黒い動物(猫)がにょろにょろと椅子の足をぬって歩いてるし。
48ページ、ホセ・アルカディオが感覚と欲望と未知の恐れに翻弄される描写は『桜の森の満開の下』を思い起こさせる。または『夜長姫と耳男』。どうしようもなく掴まれるが恐ろしくて、腑抜けになりそうなのに、赤子のようにその感覚に溺れて、めくらになる。
アルカディオ・ブエンディアが殺してしまった男が幽霊になって登場するシーンについて『『百年の孤独』を代わりに読む』では、一般的には死者を避けるのに、幽霊のためにたらいを置いてあげたりして"ないはずのもの”を”真に受けて応対する”という風に書いてあった。私もこれが可笑しかったし、同時にやはりガブリエル・ガルシア=マルケスの「三人の夢遊病者の苦悩」という短編を思い出した。生きている人が死と生をどんなふうに編んでいるか、死んでいる人が死をどう生きているか、この話の中で死は固定されない。生きている時と同じようにそこにまだ肉体があるのに、どうしてその世界が終わったと言える? 人の存在は時間を飛び越える。老婆は赤ん坊だし、わたしは1000年前の娘でもある。
このときも、本の中の幽霊は暗い地下室の隅にいるのに、私は西陽が差し込む部屋でうろうろ徘徊しながらこれを読んでいたのだった。葉や建物に遮られて薄くなった光が目の中やページに入り込んでくると自分が金色に照らされた羽虫みたいに感じた。
友田氏がここでドリフを出してくるのがすごく面白くて声を出して笑ってしまった。たしかにいかりや長介の"真に受けていちいち応対する”力はすごい。いかりや長介がドリフのコントの中で演じるのはいつもちょっと不機嫌そうで辛辣な常識人なのに、実はどんなことでもちょっと怒ったり困惑したりしながらもりもりと受け入れて、キャパがオーバーすると「だめだこりゃ」と言ってそのトラブルは精算され、そしてまた次のありえないことが受け入れられるまっさらないかりや長介が生成されるのだった。